Kazuhiko Hosokawa 2005

2005年 ツアープレーヤーNO.1
細川和彦

どちらかといえば、涙もろいほうだ。過去7勝も、思い起こせば涙のシーンのほうが多い。それでも今回は、絶対に泣かないつもりだった。その決意は、最後の最後にもろくも崩れ去った。

17番で3メートルのパーパットを決めて首位をとらえ、もつれこんだプレーオフ。1ホール目は木と木の間3メートル四方の隙間を脱出するピンチを切り抜けた。ただひとり、フェアウェーを捉えた2ホール目。スメイルと今野が、先にパーパットを外した。これが初タッグのジョー・エドワーズさんと、2人で読みきった4メートルのパーパット。ほぼストレートのラインは、打った瞬間すぐに「入る」と、確信できた。

地元・茨城の大ギャラリーの歓声に応え、笑顔で握った右こぶし。駆け寄ってきた長男・和広君を、やっぱり笑顔で抱き上げた。興奮冷めやらぬままに臨んだヒーローインタビュー。はじめは笑顔で順調に、受け答えができていた。でも、途中で妻・玉枝さんがそっとかたわらに立ったとき、こらえきれずに細川は泣いた。妻の涙を見た瞬間、溢れる思いが頬をぬらした。

難コースに立ち向かったこの4日間だけではない。「もがきにもがいた」4年間だった。2001年、やはり地元・茨城で開催された大会で、ツアー通算7勝目をつかんだその2週間後。日本オープン初日に、激しい腹痛に襲われた。ハーフターンでトイレに駆け込んだあとも、下痢が止まらない。そのまま緊急入院して17日間。ベッドの上で、朝から晩まで点滴を受けたがいっこうに回復しない。いよいよ精密検査を受けて、「潰瘍性大腸炎」という原因不明の難病と診断されたとき、一度は「俺のゴルフ人生は終わった」と絶望した。

どうにか症状を軽くする方法があるとわかり、気を取り直して治療に励んだが、それでも再発の不安といつも隣り合わせだった。いまでも治療薬は手放せない。食事にも常に気を使わなければならない。それでも前向きに、今年から日本体操協会の公認トレーナーでもある山本利幸コーチと組んで、少林寺拳法やボクササイズなどユニークなトレーニング法で、体力維持にも積極的に取り組んできた。

日々の努力で深刻な病いを乗り越えて、たどり着いたこのツアープレーヤー№1のタイトル。ウェッジウッド社製の優勝トロフィーは、玉枝さんとの約束だった。この日最終日に35歳の誕生日を迎えた妻のために、絶対に手に入れてみせると心に誓った。有言実行を果たした宍戸ヒルズの18番グリーン。自分の胸に抱いた長男・和広君と、玉枝さんに抱っこされた次男・和秋君ごと、その両腕にかき抱いた。地元・茨城の大ギャラリーが見守る中で、家族4人がさらに絆を深めた瞬間だった。

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